僕はまだシンデレラさ
2007年2月28日来年成人する僕は本当に大人になれるのだろうか。とても心配である。
社会的、一般的に人間は20歳で成人するが、実際子供から大人へ変わる時、明確な境界線なんて存在しない。また、時期もそれこそ疎らで三十過ぎても子供な人もいれば18歳で一人前に生活できる人もいる。人によっては親の死が訪れたらやっと一人前だと言う人もいる。なんとなく言いたい事はわかるのだが、親の恩恵を得られなくなったとき初めて社会を見るんだと、、、そういうことだと思う。もちろん、僕にはまだそれはできない。
先日、洗車をしていた最中に通りかかった小学生に挨拶をされた。田舎ならではだと思うのだが、僕の地元では小中学生は出会う人全てに挨拶をする。犬の散歩をしている人、畑仕事をしている人、郵便局員、路肩工事をしているおじさん、仕事もせずに酔っ払ってフラフラしている人、、、ぶっちゃけ最後の人は僕は2回ほどしか見たことないのだが、とにかく全ての人に挨拶をする。ただ、例外があって小中高生、というか子供同士ではあまり挨拶をしなかった。同属嫌悪とかそんなんじゃなくて、とにかく大人にしか挨拶をしないんだけれども、そんな中で先日僕は小学生にそれはそれは大きな声で「いってきましたあああ!」と挨拶をされたわけだ。小学生はその純粋な目で、はっきりと大人か子供かを区別しているのだろう。大人になって汚い駆け引きやお世辞など無しにストレートに行動に移る。
挨拶されてわかったのだが、のらりくらりと日々を過ごしなんとなく大学へ行った僕は未だに子供だと思っていたのだが、いやはや見た目は既に大人だったようだ。こうして社会から自分への態度の変化を突きつけられて初めて自分を見つめなおした。この前まで学生だったのに、もう小学生の頃の自分の目から今現在の僕の姿をみたらきっとおっさんとして写るなんだろうなぁ。しかも、タダのおっさんじゃない、ここ一ヶ月も勉強も仕事もしていないそれはそれは酷いありさまのおっさんに見えるに違いない。当時の僕なら間違いなくこう言う。「このオッサン、ニートってやつだね。」
・・・だよな。そうだよな。間違いないよね。うん・・・。
僕が小学生の時、何気なく声をかけていた人たちもきっとこんな感じだったのだろうか。僕の様に挨拶されて自分が大人だと気づいたりする。それくらい鈍感になっている。自分では気付くことができない事実も社会に知らされる。それは時に冷酷に社会は容赦なく突きつけてくるのだと思う。まだまだ僕は未熟なものだ。こんなこと言うまでもないことなのだが、親の脛をかじって生きている以上そこら辺の人よりよっぽど子供だと思う。ただの少し考えることのできる子供。よくよく考えたら一番タチの悪い生き物に僕はなっていたのかもしれない。将来が不安すぎる。
社会的、一般的に人間は20歳で成人するが、実際子供から大人へ変わる時、明確な境界線なんて存在しない。また、時期もそれこそ疎らで三十過ぎても子供な人もいれば18歳で一人前に生活できる人もいる。人によっては親の死が訪れたらやっと一人前だと言う人もいる。なんとなく言いたい事はわかるのだが、親の恩恵を得られなくなったとき初めて社会を見るんだと、、、そういうことだと思う。もちろん、僕にはまだそれはできない。
先日、洗車をしていた最中に通りかかった小学生に挨拶をされた。田舎ならではだと思うのだが、僕の地元では小中学生は出会う人全てに挨拶をする。犬の散歩をしている人、畑仕事をしている人、郵便局員、路肩工事をしているおじさん、仕事もせずに酔っ払ってフラフラしている人、、、ぶっちゃけ最後の人は僕は2回ほどしか見たことないのだが、とにかく全ての人に挨拶をする。ただ、例外があって小中高生、というか子供同士ではあまり挨拶をしなかった。同属嫌悪とかそんなんじゃなくて、とにかく大人にしか挨拶をしないんだけれども、そんな中で先日僕は小学生にそれはそれは大きな声で「いってきましたあああ!」と挨拶をされたわけだ。小学生はその純粋な目で、はっきりと大人か子供かを区別しているのだろう。大人になって汚い駆け引きやお世辞など無しにストレートに行動に移る。
挨拶されてわかったのだが、のらりくらりと日々を過ごしなんとなく大学へ行った僕は未だに子供だと思っていたのだが、いやはや見た目は既に大人だったようだ。こうして社会から自分への態度の変化を突きつけられて初めて自分を見つめなおした。この前まで学生だったのに、もう小学生の頃の自分の目から今現在の僕の姿をみたらきっとおっさんとして写るなんだろうなぁ。しかも、タダのおっさんじゃない、ここ一ヶ月も勉強も仕事もしていないそれはそれは酷いありさまのおっさんに見えるに違いない。当時の僕なら間違いなくこう言う。「このオッサン、ニートってやつだね。」
・・・だよな。そうだよな。間違いないよね。うん・・・。
僕が小学生の時、何気なく声をかけていた人たちもきっとこんな感じだったのだろうか。僕の様に挨拶されて自分が大人だと気づいたりする。それくらい鈍感になっている。自分では気付くことができない事実も社会に知らされる。それは時に冷酷に社会は容赦なく突きつけてくるのだと思う。まだまだ僕は未熟なものだ。こんなこと言うまでもないことなのだが、親の脛をかじって生きている以上そこら辺の人よりよっぽど子供だと思う。ただの少し考えることのできる子供。よくよく考えたら一番タチの悪い生き物に僕はなっていたのかもしれない。将来が不安すぎる。
コメント